11月15日現在、文部省に届いた「いじめによる自殺予告文」が18通に達したらしい。
「自殺予告文」は11月6日に伊吹文明文部科学相あてに届いた。
その内容は「自殺予告」及び「教育関係者・いじめた者達・その親達に対する怒り」で構成されている。
いじめ問題はいつの時代でもある。
昔とは質が違うのだとかいう意見は聞き飽きた。
環境が変化しているのだからいじめの質も変化していて当たり前である。
現在の「いじめ」を特別視して騒ぐ必要は無い。
さて、今回の「自殺予告文」騒動だが、拙僧は60%の賛成という心境である。
身近な大人に話しても埒が明かないのだから、上層部に意見すれば良いというのは当然の考え方だ。
文章の内容は些かおかしな点はあるが、自分の思いを書けている。
但し問題があるとすれば、これが匿名である事だけだ。
インターネット同様、匿名の意見はその説得力を大きく下げる。
本人に本当に自殺する気があるなら実名を書いておくべきであった。
といっても拙僧は自殺を奨励する気は全く無い。
小学・中学・高校の年齢で自殺するのは馬鹿者でしかない。
成人してから、努力し、それでも駄目であった場合にのみ最終手段としての「自殺」を決意するならば、それは仕方のない事だろう。
ただその前に「自分に出来る事」を全てやってみたのか、確かめてから「自殺」すればよい。
いじめであれ何であれ「自分に出来る事」をやりもしないで最終手段である「自殺」を選んでしまう馬鹿者は多い。
それを鑑みて見れば今回の「自殺予告文」は、社会問題化として注目されただけ行動した分、幾らかマシであろう。
かの当人は今現在、恐らくは自殺する気は無いはずである。
(既に実行していて政府関連が報道していないという可能性もあるが、マスコミの動向を見るにそれはないと思われる)
当人は今回の騒動が社会に思わぬ影響を与え、賛同し二番・三番煎じが現れた事に安堵していることだろう。
「自分だけが苦しんでいたのではない・賛同者も現れた・もしかすると学校や社会が変わるかもしれない」
そのような思いが頭に浮かんでるのではないか。
少なくとも今後の社会の動きが気になり、自殺しづらいはずである。
そもそも「自殺」は「殺人」である。
己の命といえど己の思うように殺してはならない。
「自殺者」は「殺人者」であり「被害者」ではない。
拙僧がこのような事を言える資格があるかといえば、ないと言える。
ただ、言う権利は持っている。
拙僧も学生の頃には「いじめ」られていた経験を持つからだ。
待ち伏せされ、砂をかけられ、靴を隠され、聞こえるように陰口を言われた。
普通に話す友人もいたが、彼らには何もされなかったし、しなかった。
助けてくれる事もなければ、助けを求める事もなかった。
拙僧がとった行動は単純な「仕返し」であった。
相手が一人の時に近づきもうやめろと言う。
無論聞くわけがないが、一度は反論したので実際の行動をとった。
同じ事をやったのである。
ただ相手が複数であるため、一人づつに行なった。
相手が「いじめ」をやめるまで執拗に「今まで受けた事」と同じ事を繰り返した。
何人かは学校に来なくなった。
残った者達は「いじめ」をやめた。
拙僧は己のとった手段が結局は「いじめ」をする側と同じだという事を認識していた。
決して誉められるものではなかった。
しかしその頃頭に浮かんでいた「自殺」という手段よりかはずっとマシだと思っている。
手段は何でもよい。
自分のやれる事を探し、それを実行する事が大切である。
目標は何か。
「いじめ」られなくすることである。
目標を達する手段に「自殺」を選ぶと言う事は、己が己を「いじめ」る事と同じである。
死ねば「いじめ」られなくなるが、生きて楽しみを味わう事もできなくなる。
「自殺」に逃げるな。
「行動」しろ。
「いじめ」られている自殺志願者達に呼びかけつつ筆を置く。
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